2012年1月13日金曜日

2012年 地下鉄ねずみが発見される

日本でも朝の情報番組ってあるが、ドイツでもある。
ARD/ZDFがやっているのとSAT1という局でやっているのが。
後者の方では30分置きの毎日正確な時間で
5分にまとめた形でニュースをやってくれるので、
そっちをその時間だけ見る。
数日前のこと、歯を磨きながら見ていて、
そのニュースが終わり、
特に他にすることもなかったのでリモコンをいじっていたら、
前者の局でやっている情報番組にチャンネルが合った。
 
何に反応したのかと言うと、地下鉄ネズミの話。
ニューヨークで、そこの地下鉄に住むネズミの写真の
コンテストが開かれただか開かれるだかという話。
 
実は地下鉄ネズミはベルリンにも居て、
一番有名なのはフリードリッヒシュトラーセ(U6)のネズミだろう。
旅行者はもちろんのこと、
電車を待つ住民達もその様子を眺める。
自分も写真に取ろうと頑張っていたこともあったのだが、
今に至るまでその姿を収めることは出来ないでいる。
 
だが、それは以下のようにおそらくその必要性を
そこまで感じないからでもあるのかもしれない。
 
気づいたことは何でもメモを取るように
している自分の走り書きの中にも
地下鉄ネズミについて書いた部分があったりもする。
「ネズミ」の部分をRatte(英:rat)にするかMaus(英:mouse)に
するかで悩んだ形跡もある。
例えば意識を地上、無意識を地下だとすると、
その地下の中でも最も目に付き辛いところ、
その最底辺や物陰を主たる活動の場にしているのが
地下鉄ネズミ。
推定アメリカ人の旅行者が見つけて、
あのノリでテンション上がりまくりで
騒いでいることがあったとしても、
それを見たベルリン人は何に騒いでいるのか分からない、
それくらい普段はその存在すら気づかれないような生態。
意識による注視も無意識による監視も潜り抜けるが、
そこに何らかの否定的な意志が働いているのではない。
だから場合によって地下鉄のホームの人間に
見つかってしまうことがあるのだし、
さらに場合によっては連中は例えば夜とかに
地上に出ていることもあるのかもしれない。
さらにもっと突き詰めて言うなら、
「地下鉄」であることにも必然性はない。
昔は「納屋」であるとか「屋根裏」にいたのかもしれない。
将来地下鉄ではないところに移動する可能性も大いにある。
連中がかじってケーブルか何かが切断してしまい、
社会的機能が停止してしまうことがあるかもしれない。
だが連中には悪意も無ければ野心もあるわけではないのだ。
もう何の文脈かお分かりだろうが、
地下鉄ネズミというのはノマドとリゾームの換喩なわけであり、
フーコーの概念の中でも日本ではあまり紹介されておらず、
かつ自分からするとフーコーの概念の中で最も
ドゥルーズ・ガタリ的な概念であるヘテロトピー/異所性
とも関連を持っているわけである。
 
実は上のニュースに先立つこと1週間ほど前、
僕は地下鉄ネズミに遭遇した。
自宅最寄の隣駅、ゼーシュトラーセで地下鉄を待っていたら
そこのキオスクの壁沿いをチョコチョコと一匹のネズミが走っていった。
これもだから1つの兆候のようなものであって、
こんな風に、あたかもスポットライトに照らされるように、
出会うにはあまりに場違いなものがある。
ましてメディアのテーマとしてはなおさら。
 
ドブネズミには「写真には写らない美しさ」(ブルーハーツ)がある。
地下鉄ネズミもまた、そうなのだろう。
 
そしてこんな簡単にメディアに見つかるような概念ばかり
生産していたとあってはプロの哲学者の名折れだ。
我が身を今一度戒めよう、とかそんな出来事。

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