先週誕生日だった自分のところには
家族からメールが来たのだが、
それに混ざって教授からもメールが来ていた。
誕生日にメールを送り合うとか
そういう怪しい関係ではないので、
いつもの来学期のゼミの通知リングメールだろう、
などと思っていたら、件名は「所見」。
論文の審査結果だった。
博士課程の成績は2段階+総合で出される。
論文の評価と口頭試問の評価、
そしてその総合での正式な形での評価である。
論文の評価は提出後3ヶ月以内に出す決まりになっている。
学部の方から自分と審査委員のメンバー5人宛てに
その旨が強調された手紙も送付された。
自分が論文を提出したのは4月。
評価は一向に来なかったので、
これは後に、総合評価として出てくるのかな、
と既に思うことにしていたくらいだった。
というのも、提出前に教授は既に論文に目を通しているわけで、
提出にOKを出す=論文の審査の段階で落とされることはない、
というわけで、評価を待たずとも次の話を進めることが出来るため。
自分の方も日程が確定し、休暇が明け次第(ドイツではここ重要)
早速口頭試問の日程を各審査委員間で調整しようと
心の準備だけはそろそろしていた頃だった。
審査の結果は、受け取るにしても、
ひょっとしたら学部の掲示板に張り出されるにしても、
上の評価の期日や口頭試問の日程を通知する手紙のように
きっと一枚の紙でなされるのだろう、と思っていたら、
教授から来た所見はワードの文書で7ページ、
内容の要約から始まり、その学術的業績としての評価、
それらに対する教授自身による意見陳述と批判的注釈、
と雑誌などでよく見る論評の形式だった。
自分に対し君のここが良かった、ここが不十分、云々ではなく、
第三者(推定学部)宛てに書かれた文章であり、
その評価が何に基づき為されたのかが十分に説明してあった。
形を変えればそのまま雑誌の書籍批評欄や論評欄に
投稿可能なかなりしっかり書かれた所見だった。
自分の教授というのはヘーゲル学会の(国際的にも)
トップな方、そしてそんな肩書き無しでも、
学生からは神とか賢者とか賢人と言われる人なわけで、
その人の書く文章の中に自分の名前が出てくるのを
見るというのは、その興奮たるや、容易に想像して
もらえることだろうと思う。
自分を落ち着かせつつ、要はかなり頻繁に休憩を
挟みつつ読んでいった。
所見そのものはいかにもその教授らしい緻密な分析で、
非常に丁寧に読んでもらえた事が良く分かる内容だった。
口頭試問用に要約を書かねばならないのだが、
もうこれでいいんじゃないのか、というくらいの出来。
それを読んで、おお、自分はそんなにいい物を書いたのか、
なんて思ったが、言うと自画自賛。
この所見を読んだ人は自分の論文を読んでみたくなるだろうな、
と他人視点ではそんなことを思った所見だった。
評価は優。これは秀に次ぐ2番目の成績となる。
自分の論文の持つ独特な難解さが諸刃の剣となった
といった所なのだろうと思う。
「評価するのは非常に難しい」と少なくとも2度あったし、
それ以上に「私が正しく理解できていれば」の句。
博士論文の範囲でやるにはあまりに「危険」な
内容だったそうだ。この辺りは確信犯であるけれど。
ベンヤミンやデリダの時代とは変わった、と言っても、
そう思っているのは自分だけかもしれないのだ。
少なくとも日本だと絶対書き直しさせられていただろう。
分かっていたからドイツに来たのだが、
ドイツだったら何でもOKというわけではもちろんない。
こう書いた時点で高評価は狙えないという書き方。
だからこの評価は非常に妥当かな、と思う。
自分がドイツでアカデミックな仕事を探さないことと
教授の温情、前者は可能性、後者はかなり高確率で
加味されていて、で。
さてと、しゃべる練習でもしますか(笑。
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